貴様!勝浦の者やろ、あっちへ行かんか!ここは津屋崎の海ぞ!」
  「やかましい、何言ようとや!ここは俺たちの海たい、この魚泥棒が!」
白石浜の沖合では舳先をぶつけ合い、怒号が飛び交い、浜では殴り合いの喧嘩や網が破られる事件が頻発していた。
弘治二年十二月、津屋崎浦と勝浦の間で、漁場争いがあったと記録されている。

  「貴様らが先に境を越えて魚を捕ったろうが・・・!」互いの言い分はいつも同じだ。流血騒ぎの後、双方の長老や代表が集まり、悪行をののしり合った末に境界を確認する。しかし海の上に線は引けない。岩場が多い津屋崎浦の漁民は数に任せ、網を入れやすい勝浦の白石浜を侵蝕していった。永禄三年、勝浦は宗像大宮司から「境界は今まで通りとする」との裁定を貰った。これには津屋崎浦漁民も従うしかなかったが一件落着とはいかない。魚も船も動いている。その後も漁場争いは90年以上続いた。

  寛永十五年正月、津屋崎浦漁民は竈門神社(かまどじんじゃ)の山伏 鳥井坊慶珍に「大願成就の折りには、津屋崎浦漁民は檀徒になる」との起請文を奉じた。混乱を鎮めるべく、寛永十七年、黒田藩浦奉行 篠原勘右衛門(しのはら かんえもん)は現地を調べ、両浦のほぼ真ん中の俵瀬をもって新たな境界とすることを伝えた。しかし、この御上の裁定に津屋崎浦漁民は納得せず、総代 庄屋佐兵衛を筆頭に六人衆が決死の覚悟で請願した。
 数日後、浦奉行 篠原勘右衛門は一計を案じ、総代庄屋佐兵衛、組頭七兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門の六人を奉行所に呼び出し申し渡した。「俵瀬にある大石をお前達六人で担いで歩け、歩き尽きた所を新しい境とする。それでよいな。」高さ三尺、幅五尺もある大石だ、例え運んだところで高が知れていると踏んでいた。

  寛永十七年六月一日、夏の盛り、白石浜の丘陵伝いに竹矢来(たけやらい、竹を斜めに交差させた柵)と幔幕(まんまく、壁の見立て)が張られ、中央に床几(しょうぎ、折りたたみ腰掛け)が置かれていた。巳の刻、経帷子(きょうかたびら)の装束に白の腹帯を巻いた六人衆がすでに筵(むしろ)に正座し奉行を待っていた。陽射しが容赦なく六人に降り注ぐ。目の前には棒を井形に組み、それを頑丈な太い縄で幾重にも巻きつけた三百貫はある大石があった。竹矢来の外では、赤子を抱いた女、ねじり鉢巻き法被姿の若者、お祭り気分の子供、位牌を握り締め何やら念仏を唱える年寄りなど、津屋崎浦、勝浦の群衆で埋め尽くされ、声援と怒号が波しぶきをより一層増幅させていた。小半刻して、陣笠を被った浦奉行 篠原勘右衛門が数人の伴を従え、ぐるりと周囲に睨み見を効かせながら床几に腰を下ろした。

  六人衆が奉行の前でひれ伏した。
「津屋崎浦総代 庄屋佐兵衛、組頭七兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門に間違いないか。役目によって篠原勘右衛門検分致す。支度はよいか!」佐兵衛は頭を少し上げ声を震わせて「お奉行様、わし等がこの大石を運んだ処を境界にするとのお裁きに間違いありませぬか」 「たわけ者!武士に二言があるか。不肖なれどこの篠原、筑前七浦を治める奉行なるぞ。」
「ははあ・・恐れ入りまする。」

―次号へ続く―     ※ 上妻国雄 著 宗像伝説風土記を参考に一部を引用しています。