「樟の実鉄砲」で遊んだことがありますか、小さな竹の穴に樟の実を込め、棒で押して空気圧で飛ばします。子供の頃、大きな樟は神社の象徴であり宮地嶽神社は遊び場でした。
 日本で巨樹ランキング1位は鹿児島県姶良市蒲生町上久徳(あいらしかもうちょうかみぎゅうとく)の「蒲生(かもう)の大樟」で幹回り24.22m、樹齢は1500年と言われています。ランキングトップ50の内33本が樟です。その内九州に18本あり、佐賀県、熊本県、鹿児島県では県木となっています。福岡県 宇美八幡宮の「衣掛(きぬかけ)の森」「湯葢(ゆふた)の森」は樹齢2,000年、佐賀県武雄にある「川古の大楠」は樹齢3,000年、「塚崎の大楠」は2,000年とのことですが、1,800年前、邪馬台国の女王卑弥呼は樟の下で樟気を感じながら祈祷したに違いありません。
 7世紀頃、ヨーロッパでは樟から採れる樟脳を薬や防虫剤として利用しました。樟は英語でカンファ―・ウッド、カンフル剤の語源となっています。
 日本で初めて樟脳を製造したのは慶長3年、豊臣秀吉による朝鮮出兵の時、薩摩藩が連れて来た朝鮮人陶工と言われています。その後土佐でも樟脳製造が始まり西日本で広く造られるようになりました。幕末の頃、薩摩藩や土佐藩は樟脳で資金を稼ぎ、明治維新を実現しました。大河ドラマ「竜馬伝」では香川照之扮する三菱重工創設者 岩崎弥太郎が樟の買い占めに走る場面がありました。
 明治2年アメリカのハイアット兄弟がニトロセルロースに樟脳とアルコールを混ぜ、人類最初のプラスチック、セルロイドを開発。人形、ピンポン玉、メガネなどが造られました。「青い目をしたお人形、アメリカ生まれのセルロイド・・・」 野口雨情の歌詞にもあります。         
 こうして樟脳と樟脳油は防虫防腐剤・香料・医薬品のほか、セルロイドの原料として需要が高まります。日清戦争後、明治政府は台湾を植民地とし、明治36年に樟脳を専売品として増産、その資金で軍事力を高めました。台湾統治時代、石川島播磨、神戸製鋼、帝人、サッポロビールの前身でもある鈴木商店の大番頭、金子直吉が奮闘したのも樟脳でした。大正時代になって化学合成の「ナフタリン」が製造され、樟脳の防虫剤としての需要は減少していきます。
 第二次大戦末期には航空機の燃料不足で松根油が使われましたが、それだけでは足りず樟脳を燃料にする製法が開発され、軍は全国の樟脳工場に増産を要請、婦女子は樟の葉や枝を集めるために動員されたそうです。昭和30年頃、プラスチックは石油製品に置き換わり、昭和37年に樟脳は専売廃止となりました。
 天然樟脳はナフタリンと違い、金糸を傷めず、衣服に付いた匂いは消えやすい特徴から、今でも需要があります。それでも九州で樟脳を製造しているのは3社程です。福岡県みやま市瀬高町長田(せたかまちおさだ)の「内野樟脳」では5代目 内野和代さんが、150年前の油圧式圧縮機や円盤状の切削機を専売公社から譲り受け、現在も使用されています。
 傍を流れる矢部川の中ノ島公園には300年前、護岸のために植林された1300本もの樟があり、先人の偉業を知る上でも必見です。散策の後は川音を聴きながら、樟の香漂う♨船小屋温泉の湯船に浸って、心と体をリフレッシュ。「300歳の樟から見ればまだまだ若僧、そう!俺は若いのだ?・・・♨」