- ●日 時
- 令和7年10月30日 午前9時から午後16時30分
- ●訪問先
- 旧伊藤伝右衛門邸、若戸大橋、若松地区建築遺産、若築建設資料館、旧古川鉱業ビル
- ●参加者
- 総合商品部会員6社6名
明治34年官営八幡製鉄所が創業を開始します。今年は昭和100年に当たりますが当時貨物取扱量日本一は若松駅です。運ばれたのは石炭、日本の工業の中心は北九州洞海湾周辺でした。石炭の荷役作業の争奪戦を描いた芥川賞作家火野葦平「花と龍」の登場人物を思い描きながら明治、大正、昭和の時代を築いた人々の活躍を辿ることにしました。
筑豊の炭坑王 伊藤伝右衛門が伯爵令嬢白蓮を迎え入れるため大規模改築した伊藤伝右衛門邸は平成18年に飯塚市の所有となり綺麗に整備されていました。しかし絶縁状を突き付けられた伝右衛門の気持ちを考えると迷惑に違いありません。
筑豊の炭坑王 伊藤伝右衛門が伯爵令嬢白蓮を迎え入れるため大規模改築した伊藤伝右衛門邸は平成18年に飯塚市の所有となり綺麗に整備されていました。しかし絶縁状を突き付けられた伝右衛門の気持ちを考えると迷惑に違いありません。
若戸渡船(通称ポンポン船)は若松と戸畑を3分100円で結ぶ旅客船です。この洞海湾を石炭運搬船が隙間なく往来していました。当時を少しでも感じようと乗ったのですが全く想像できないほど静かな湾となっていました。
若築建設資料館は誰でも見学できます。大型貨物船の航行を確保するため洞海湾の浚渫工事に当たったのが若松築港株式会社(現 若築建設株式会社)です。浚渫した土砂を湾内の埋め立てに使い、埋め立て地の払い下げを受け業績を伸ばしたとのこと。なるほど?!
その後スエズ運河の浚渫工事など世界へ事業展開。洞海湾が起源でした。
若築建設資料館は誰でも見学できます。大型貨物船の航行を確保するため洞海湾の浚渫工事に当たったのが若松築港株式会社(現 若築建設株式会社)です。浚渫した土砂を湾内の埋め立てに使い、埋め立て地の払い下げを受け業績を伸ばしたとのこと。なるほど?!
その後スエズ運河の浚渫工事など世界へ事業展開。洞海湾が起源でした。
「若松再発見の会」代表 山田泰治さんに日頃見ることができない若戸大橋の橋脚内を案内して頂きました。昭和5年若戸渡船転覆事故で73名の方が犠牲となられ、トンネル工事の計画が出ましたが戦争から中断、結局昭和37年に東洋一の吊り橋若戸大橋が完成します。特徴は溶接やボルト締めではなく1,200度の真っ赤に焼けた144万本のリベットで接合していることです。東京タワーも同様とのことですか、赤色はより赤みが強く鮮やかで、エネルギー・情熱・使命を象徴しているそうです。
若松恵比寿神社は若戸大橋建設工事にあたり、曳家で移動させたとのことです。奉納者を刻んだ玉垣に花と龍の主人公 玉井金五郎や炭坑王 麻生太吉の名前がありました。
明治末期 石炭は黒いダイヤと呼ばれ連歌町遊郭には100軒の料亭があり商社、銀行も若松に支店を構え隆盛を極めたそうです。劣悪な環境にあっても勇ましく、豪快でエネルギッシュな人々の姿が想像できます。
今回は時間の都合で火野葦平の旧居 珂伯洞には行けませんでしたが、玉井金五郎の長男 火野葦平(本名 玉井勝則)は凶弾に倒れた中村哲さんの叔父にあたります。
研修を終え、多くの写真や資料から当時の活況その後の歴史を知ることができました。
帰りの若戸渡船からの景色には大腸菌すら住めないと言われた洞海湾の姿はなく。何事も無かったかのように小魚が元気に泳いでいました。
若松恵比寿神社は若戸大橋建設工事にあたり、曳家で移動させたとのことです。奉納者を刻んだ玉垣に花と龍の主人公 玉井金五郎や炭坑王 麻生太吉の名前がありました。
明治末期 石炭は黒いダイヤと呼ばれ連歌町遊郭には100軒の料亭があり商社、銀行も若松に支店を構え隆盛を極めたそうです。劣悪な環境にあっても勇ましく、豪快でエネルギッシュな人々の姿が想像できます。
今回は時間の都合で火野葦平の旧居 珂伯洞には行けませんでしたが、玉井金五郎の長男 火野葦平(本名 玉井勝則)は凶弾に倒れた中村哲さんの叔父にあたります。
研修を終え、多くの写真や資料から当時の活況その後の歴史を知ることができました。
帰りの若戸渡船からの景色には大腸菌すら住めないと言われた洞海湾の姿はなく。何事も無かったかのように小魚が元気に泳いでいました。
総合商品部会 部会長 谷岡源信
