歌詞に登場する櫨(ハゼ)はウルシ科の落葉高木で本州中部以南、特に福岡、佐賀、大分をはじめ、九州各県と四国に多く植えられています。
日本でろうそくが最初に登場したのは奈良時代で、仏教伝来とともに中国から輸入された蜜蝋(ミツロウ)ろうそくといわれています。平安以降になって、東北産の漆櫨(ウルシハゼ)から造った漆蝋(ウルシロウ)の和ろうそくが作られるようになりました。その後、江戸初期(1645年)中国船が鹿児島県桜島に漂着し、黄櫨(ハゼノキ)と蝋を搾る道具を伝えたことから、九州の各藩は競って櫨の栽培に力を入れました(他にも諸説あるようです)。筑後国御原郡寺福童村(チクゴノクニ ミハラグン テラフクドウムラ)(小郡市)の内山伊吉は苦心の末に品種を改良し、「伊吉櫨」として筑紫一円に広く普及しました。櫨は英語でJapan Wax Tree となっています。櫨の木から造られる木蝋(モクロウ)は江戸時代から農家の重要な換金作物であり、当時の文献にも、櫨がこの地方の主要特産物となり、米に次いで藩の財政に寄与したことが記されています。木蝋生産は明治40年代がピークとなり、それ以降は価格の安い石油系パラフィン蝋が主流となりました。昭和30年頃まではポマードやチック用に輸出量も多かったのですが急速に需要が減少し、それとともに櫨の木も伐採され、杉や檜といった常緑樹が山を覆い尽くし筑後川流域の秋景色も変わってしまいました。
「松山櫨復活委員会」代表の矢野眞由美さんによると、久留米市山本町豊田にある「柳坂曽根の櫨並木の紅葉」が晩秋の風景を彩っていますが、かつては耳納連山が紅色に染まったそうです。
(毎年11月中旬に柳坂ハゼ祭が開催されています。)
28歳の若さで病死した、久留米出身 明治の洋画家 青木 繁も
と病床から故郷の景色の中に母親の面影を詠んでいます。
櫨蝋は今でも高級和ろうそく、お相撲さんのビンツケ、口紅などの化粧品、医薬品の基材として利用されていますが、製造業者は荒木製蝋、野口植栽蝋など数社を残すのみとなっています。
田主丸にある「櫨屋敷」では和ろうそくの手作り体験が出来ます。
自分で作った蝋燭に火を燈し、地酒を片手に、櫨がたどった歴史、紅く染まった故郷の景色に思いを巡らしてみませんか。・・・身を削り揺らぐ炎が映し出す先人達と櫨の生き様・・・