私が生まれ育ったのは、熊本県の菊陽町というところです。
熊本は風光明媚な街で市内の水前寺公園側からいまは珍しくなったちんちん電車に乗って市役所方面に行くと中心の商店街の前を通り、市役所の前まで来ると正面に勇壮な熊本城がみえます。
このお城のわりと近くに熊本駅があり、ここからJR豊肥本線というローカル線に乗ると熊本城から3里(約12km)離れたところに三里木という駅があり、その次に原水という無人の駅があってそこを降りたところが育った町です。
この豊肥本線は、阿蘇の手前の立野で阿蘇駅方面と高森方面に分岐し阿蘇側へは九州では珍しいスイッチバックで登っていきます。 私の小さい頃はここを蒸気機関車が走っており、さすがに高校の頃は、立野から分岐する高森線でしかみられなくなりました。 豊肥本線沿いには大津街道が走っており道の両脇には、昔は立派な杉並木がありました。 元は豊後街道で豊臣秀吉の天下統一後に整備され、その後大名泣かせの参勤交代で肥後藩主が利用しており加藤清正が杉を植栽し熊本から大津に至る15kmもあったそうですが、いまは菊陽町と熊本市に一部残るのみとなっています。
原水の駅をおりて北へ500mくらい行くと、とある集落があります。 祝日ともなると、その集落の前の道にそれはそれは、ずら~っと日の丸が並びます。ここは、鉄砲小路と呼ばれるところで、妙解院(細川忠利)の命により寛永12年(1635年)頃、軍用防備のため鉄砲衆を配置したことが名前の由来となっているそうです。屯田兵の集落で普段は農業を勤しみ、いざ鎌倉となれば武具をまとい、鉄砲を担いで戦場へ赴かれたそうです。
この集落のすぐ北側には川が流れておりよくそこで泳いだり魚を捕ったものです。 この川は堀川と呼ばれ阿蘇から流れ下る白川の流れを大津町の瀬田付近から取水し熊本市内の坪井川へと伸びる江戸時代に開削された農業用水路で、現在は坪井川水系の二級河川となっています。 この川は熊本藩主加藤忠広が工事に着手し一時中断されたそうですが、細川忠利が再開し1637年に完了したものだそうです。そんな由緒あるものとはつゆ知らず、子供の遊び場となりシーズンには蛍を捕りにいったものでした。
この川の畔に小さな家がありそこが我が家でした。
我が家にたどり着いたところで、とりとめのない話を終わりたいと思います。